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50代、子育てが終わったこの春に思ったこと(息子への手紙)

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この春、息子が社会人になり無事に巣立って行った。

50代、長かった長かった子育てにやっと終止符を打つことができた。

子供が巣立ったこの春、今の気持ちをありのままに記録しておこうと思う。

最初に書いておきたいことがある。

それは、私は「良い母親」にはなれなかったということ。

 

母親になることを望んで授かった命だったのに、

私にとって「母親」になったことは「試練」以外の何者でもなかった

「母親」になったその日から、全てが変わった。変わってしまった。

 

イバラの道を素足で全力疾走していくような日がその日から始まった。

泣き叫ぶ幼子を抱えながら自分も一緒に泣いた日々。

これが母親になるということなのかと、絶望の中で頭が変になりそうになったこともある。

 

そうして、母親としての日々は過ぎていき、「私」が「私」でなくなっていく恐怖と悲しさを同時に抱えながらずっと生きてきた。

 

私は「良い母親」ではなかった。

息子を「可愛い」と思ってあげられる余裕がなかった。

この試練は永遠に終わらないのではないか?と絶望した日もあった。

 

やがて小さかった息子はどんどん成長して、見上げるほど大きくなった。

そうしてこの春、無事にこの家から巣立って行った。

24年の歳月は、あまりに長かった。

 

私は「良い母親」ではなかった。

だから子供に対して申し訳ないという後ろめたさを常に抱えていた。

その後ろめたさは子育てが終わっても一生消えないだろうと思っていた。

 

でも、それは違っていた。

巣立って2週間ほど経過したある日、届ける書類があって息子のもとを訪れた。

2週間ぶりに会った息子はとても元気で目をキラキラ輝かせながら近況報告をしてくれた。

まるで、懐かしい友と久しぶりに再会した時のように。

私は「良い母親」にはなれなかったけれど、

私達はいつのまにか気持ちを共有して寄り添える存在になっていたのかもしれない。

そのことを感じた瞬間に、私の後ろめたさがスッと消えていった。

私の子育てはもうずっと前に終わっていたのかもしれない。

その日の4月の輝く澄んだ晴天と同じように、私の心も晴れに変わった。

 

息子へ

これからの人生の中で、

どうしても乗り越えられない困難で苦悩することや、人生を悲観したくなる出来事があるかもしれません。

そんな時にはどうか決断を急がずに、試しにこの家に帰って一晩ゆっくり眠ってみてください。

私はもう何もしてあげられないけれど、暖かい布団とご飯ならいつでも用意してあげられるから。

ゆっくり眠って目覚めた翌日に、それから決めても遅くないと思うから

 

私は良い母親にはなれなかったけれど、

あなたと出会えたことが、私の人生最大の喜びだったことを今実感しているところです。

生まれてきてくれてありがとう。

あなたと一緒に過ごせた日々がどれだけ尊い時間であったのかやっと分かった私を許してください。

(息子はこのブログの存在を知らないけれど、もし私に急なことが起こった時にはブログを削除する前にこのメッセージを読んでもらえたらと思いながら書きました)

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