50代、忙しすぎる日々を過ごしていないだろうか?
40代の時には「50代になったらゆっくり過ごせる」と曖昧な想像をしていた。
でも、現実にそんな日々は待っていなかった。
無理を続けることに慣れてしまうと、その無理がいつまでも何とか続けられるような気がしてくる。
私もそうだった。
それで何とか凌げていたから、無理が無理でないような錯覚に陥ってた。
心と体、両方が無理に慣れてるようで実はそうではない。
最終的に無理が祟って、私は体を壊してしまった。
壊れてから初めてその2つは全然別だと思い知らされた。
心は突き進む、どこまでもどこまでも。
しかし、体はそうはいかなかった。体の限界は必ず訪れる。
幸いなことに体は「警告」を発してくれる。間隔を開けて、段階的に「限界」が近いことを教えてくれる。
それなのに、心はどんどん先に進んでしまうからその「警告」に気づかない。
あるいは気付いても「気付かぬふり」をしてしまう。
私の場合、その警告は約1年に渡って数ヶ月おきに3回あった。
1回目は、ただの疲れだと思った。もう少し頑張れば乗り切れると。
2回目は、その数ヶ月後。体の異変(違和感)に気付いた。違和感が続き、少し心配になってその症状を調べたりしたが1ヶ月程度でその症状が消えたため、再び無理する日々へ。
3回目の警告は、最後通告だった。
尋常でない痛みが続くようになり、前にも後にも進めなくなって「強制終了」
そこから大きな病院にお世話になる結果となった。
今、この2年(療養1年、再スタート1年)を振り返って言えることはただ1つ。
「体の警告を無視してはいけない」
本当にこの1言に尽きる。
無理する日々の負担は、40代と50代では全然違う。そして回復力も同じように違う。
もし、あの時に「3回目の警告」も無視していたら「今の自分はいない」かもしれないと思う。
この1年は再スタートの生活を送っている。
ゆっくりゆっくりの再スタートから、少しずつ少しずつ通常の暮らしへ。
50代の私には40代から続けていることがあって、それは大切に自分の知恵を絞って少しずつ育ててきたものだった。
「心」はそのもの全てだった。
どんどん先に、もっともっと遠くへ「心」も「体」も進みたかった。
体が限界を迎えた時、心は更に軽くなってどんどん進んで見えなくなってしまった。
遠くなり過ぎて「体」はそこにはもう追いつけない。
最初の警告があった時に、私は心に追いつくことに必死になっていた。
2回目の警告があった時は、心がもう手の届かない所まで進んでしまっているのを知っていた。それなのに「体」も無理やりそこへ進めようとした。
3回目の警告で強制終了を迎えた時、とても悲しかったけれどホッとした。もう無理やり心に追いつこうとしなくて良いのだと。
もうきっと体を心に追いつかせることはできない。
でも、不思議なのだ。
先に進んだ心を、立ち止まってしまった今の自分はいつでもここに呼び戻すことができる。
一緒に進んでいた時(心を追いかけていた時)とは違う距離感だけれど、遠くの心はいつも先にいるけれど「ここ」にもいる。
心は、私そのもの。
心は私の中にあり、けしてどこかに消えたりしない。
だから、もう無理はしなくていい。先を軽やかに走る心はそのまま自由でいい。
それが分かってから、再スタートができた。
無理をしても先には進めない。警告を無視しても先には進めない。
限界が来たから分かったことは他にもいろいろあった。そのことも忘れないうちにこのブログに少しずつ残しておいきたいと思っている。