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50代、限界から一歩ずつ。休職から復職まで力を貸してくれた上司は「恩人」に変わった。

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体を壊した時に、仕事は休職した。

非正規雇用の立場だった私には、その先のこと(仕事の継続)は望めないと思った。

体が元に戻るのにかなり時間がかかることは、自分が一番よく知っていたから。

もう「先のことなど何も考えられない」、それがその時の本心だった。

だから「退職」するための手続きを急ぐより、契約期間が自然に終了するのを待つことを選んだ。

その間、職場と自分の繋がりは月に1度の上司とのメールでのやりとりだけ。

それが私にとっての社会との繋がりの細くて弱い1本のロープでもあった。

 

何も考えられずひたすら横になって休む日々、どんよりとした毎日がただ過ぎていった。

あんなに「仕事を辞めること」を考えていた数年前が嘘のように思えた。

この仕事に来ている時間が「自分の足かせ」になっていると思いながら職場で過ごしていた日々。

そんな日々が、今となっては懐かしい。

選ぶ自由はあったのに、辞めずに続けた「足かせ」はこうなってから改めて「社会との自分を繋いでいた確かな線」であった事実に心がズンと来た。

 

もうそこへ行けないと悟ってからしばらくして、事態は意外な方向に進んでいった。

そこには「上司」の予想外の言葉と行動があった。

 

何年も一緒に仕事をしていてれば、その人が「どういう人」かは分かると思う。

私もその「上司」は「こういう人」だというだという固定観念を持っていた。

それは仕事の進め方、指示の仕方、トラブル時の対処法などを何年も間近で見ていれば分かること。

私の上司は、

ルールと規則・基準を一番に重んじる人だった。

ルールと規則が明確になっていない事態を好まない人だった。

そして、迅速にいつでもクールな表情で込み入ったトラブルや処理も全部スムーズに処理していく人だった。

時には「この人はいつ感情を表現するのだろう?」と思ったこともあった。

ある意味、私にとって「苦手なタイプの人」だった。

そう、私はその人を「そういう人」だと思っていた。

 

でも、月に1回の近況報告のメールのやり取りをしていくうちに「そういう人」ではないことが少しずつだけれど分かってきた。

そこには「その人」の「全く違う一面」があった。

私の唯一の社会との繋がりであるその細くて弱いロープを、その人は時間をかけて1本ずつ増やしてくれた。

細くてちぎれそうだった1本のロープは、少しずつ変化した。

数ヶ月後に、そのロープは細いけれど何本にも増えていた。

そして、細くても本数が増えたことでロープは自分の手でしっかり握れるような太さに変わっていた。

その人のおかげで、私は仕事に復帰できることになった。

 

その時から「その人」は「私の恩人」に変わった。

 

復職してから1年が経過した現在、

今もその人は「ルールと規則・基準を一番に重んじる上司」であることに変わりない。

変わったのは私の考え方。

 

復帰の初日のことを、今でも鮮明に覚えている。

「感謝」という言葉の本当の意味を理解したような気がした。

復帰したての私は、まだ体力も衰えたままで非力だったけれど、

「感謝の気持ちは、これから仕事で返していこう」と自分に誓った。

会社のためではなく、お金のためでも、その人のためでも無く、全てはこれからの自分のために。

私にはそれができる。だから戻ってくることができたのだと信じて。

 

今、仕事に行くと実感することがある。

この仕事は自分にとって、けして「足かせ」ではなかったこと。

この仕事があったおかげで、自分の本当にやりたい事が分かり、それにトライできたこと。

この仕事を続けてきた先に、今の自分があること。

この仕事は「自分の人生の中で素晴らしい1つの時間」であったこと。

 

上司は「苦手だった人」から「恩人」に変わった。

私が「足かせ」だと思っていた時間は、「人生の貴重な経験の時間」に変わった。

 

病気になって分かったこと、忘れないで心に残しておきたい。

何か大切なことを忘れそうになったら、この記事を読んでそれを思い出してほしい(未来の自分への伝言として残しておきたい)

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