50代になって今更だけど、分かったことがある。
それは「好きなことじゃないと続かない」ということ。
同時に「好きなことなら続けられる」ということも。
そして、長く長く続けたことを「辞める」決断はさらに難しいことも。
続けられたことはきっと自分の「得意」なことなのだと思う。
自分では「得意」であることを認識しにくい。
「得意」と「やりたいこと」が一致しないことの方が多いから。
得意なことは、継続することでスキルもレベルもアップする。
自分では苦手だと思っていたことも継続することで次第に「得意」に変わっていく。
変わったことに気ずきにくいけれど「得意」は努力で伸ばすことができる。
もしその事が「嫌い」だった場合はだろう?
「嫌い」でも長く継続できたのはなぜだろう?
得意は気付かぬうちに「好き」を伴ってくれていたのではないだろうか?
私はこの1ヶ月で大きな決断をした。
長く長く続けたことを辞める決断。
私の「得意」は継続の中にあった。それが得意であることをずっと自分の中で否定していたけれど、たぶんいつの間にか「好き」になっていたのだと思う。
でも、15年以上続けたことを辞めたいと思うようになった。
きっかけは、「好き」だったことに苦痛を感じるようになったこと。
「好き」が「苦痛」に変わったら継続は難しい。
「好き」と一言で言うのは簡単だけれど、決して単純ではない。
私の「好き」は、苦しさを克服した時に感じる小さな達成感だった。その小さな積み重ねの中に「好き」を見つけられていたのだと思う。
苦しさと苦痛は違う。
苦しさは辛いけれどその先におぼろげな光がある。だから頑張れた。
苦痛には痛みが伴う。その痛みは次第に心を削ってしまう。削れた心は努力だけでは戻らない。戻れない。
好きなことじゃないと続かない、好きなことなら続けられる。
続けられないと思った時に、今までとは違う違和感が生まれていないだろうか?
小さな達成感の積み重ねと努力から得られた「好き」が減っていないだろうか?
私の「得意」は「好き」を引っ張ってくれていたけれど、もうそれができなくなってしまった。
この1年は無理やり続けていたけれど、得意だけではダメだった。
得意と好き、両方は表裏一体。どっちも表で、どっちも裏。
両方がお互いを補ってバランスを保っていたからこそ「継続」できていた。
無意識に「好き」になっていたから長く継続できたのだと今思う。
私の「好き」はもうここにはいないとはっきり自覚できたから、決断をすることにした。
思いっきり舵を切ってみたら、想像以上に心が軽くなった。
好きだから続けられた。嫌いだったら絶対にこんなに長く続けられなかった。
「好き」はいつのまにか「得意」が作ってくれた私の努力の証になっていた。
「得意」は好きが作ってくれた自分の武器。
得意を武器にして、これから次のステージへ進もうと思う。