PR

「人生の最後まで残しておきたい物は何だろ?」という基準で片付けをしてみたことがありますか?

※当ブログ記事には広告が含まれています

a1180_012195

 

本格的に片付けを始めた時に、自分なりの基準を作った。

 

人生の最後まで残しておきたい物は何だろう?

 

極端に思えるかもしれないが、それには理由がある。

 

それは、同じ年代で亡くなった「太陽の彼女」の遺品整理を進めるお子さん達の姿を見たからだ。

【気持ちと向き合う】彼女は太陽の人だった、私はずっと月の人
片付けは、物と向き合うだけではない。 心や気持ちを整理しなければならない時がある。 逝ってしまった友人は、「太陽の人」だった。 初めて会った瞬間、彼女の放つ光が眩しくて、目をこすりたくなった事を今でもよく覚えている。 決して華やかな美人とか...

 

故人の持ち物、それが「遺したの物」なのか、「残したの物」なのか分からない事の重みを知る出来事だった。

 

高齢の親類の遺品整理は親を通して垣間見た事はあったが、同年代の友人の残した物は、自分の持ち物と重なって辛かった。

 

彼女のお子さんから、「これは捨ててもいいのだろうか?」と聞かれた時に、私は答えてあげる事が出来なかった。

 

だから、

本当に自分の人生にこれからも必要な物が何かを知りたいと思ったのだ。

 

そこに基準を合わせると、

 

私には、何も遺したい物が無い、ことを知った。

 

自分の人生が終わった後、残された家族に「所有し続ける事を頼みたい」と思えるものが何一つなかった。

 

ある意味びっくりで、
ある意味スッキリした。

 

選抜で残り、今使っている物は、これからの人生を共に歩んでいきたいが、もしその物の寿命が先にきたら、処分や買い替えをしながら数を徐々に減らしていきたい。

 

以前の私は、全くの別人

 

欲しい物が沢山あって、
買って買っても、次の新しい物が欲しくてしかたなかった。

 

当時、家の中には、その名残の品々があちこちにあった。

 

「太陽の彼女」を見送ってから、この3年間、沢山の物を処分した。

 

思い切って削ぎ落としてみないと、本当の事は見えない。

 

削ぎ落とし後の私の持ち物は、数が減り、やっと自分で把握できるようになった。

そうして今は、一次選抜で残ったそれらの物たちと、改めて向き合っている所なのだ。

 

全てが活用できている訳でない。

昨日の下駄箱の話のような靴さえまだ持っている。

 

下駄箱の片付け(1)履かないのに「捨てられない1足」にじっくり向き合ってみた
昨日は、台風。湿度がとても高く、片付けをする気力も下がる。 仕方なく、体は動かさなくてもいい片付けをしてみた。 それは、捨てられない物と向き合ってみること。 本当は、下駄箱を掃除してスッキリ感を味わいたかった。 しかし、この湿度なので下駄箱...

 

かなりシンプルになったが、ミニマム生活には程遠い。

時間はかかるが、もう一度、一つ一つにゆっくり向き合っていきたい。

 

私が家に連れてきた物ばかり、自分には向き合う責任がある。

 

これからも選抜を繰り返しながら、人生最後まで「形を変え」「数を減らし」ながらお世話になるだろう。

 

私には、遺したい物は何も無い

 

でも、最後まで残して使いたい物はいくつもある。

そして、私の人生が終わったら、一緒に役割も終わらせてあげたい。

 

家族にも、既にその事を伝えてある。

だから、急に何かあっても、家族が私の所有品のことで悩む事は無いだろう。

 

物を減らしていく事は、悲しい事ではない。

一つ減らすと、一つ自由になれる気がする。

 

シンプルに、そしてミニマムに。

私の人生もそうありたい。

タイトルとURLをコピーしました